こころ、その深淵
2008 年 4 月 27 日 日曜日たまにはこんな話も書いてみようと思います。現実の世界と人の心の話。
以前とあるブログで見ましたが、自分の記事の人気度を調べてみたところ人気のあったジャンルはいかにも大衆向けな内容のもので、人気の低かったジャンルは自分の内面的な話・ごく内輪の話・専門的過ぎる話だったそうです。特に爆発的に人気のあったものは、ネタがタイムリーである程度しっかり調べて書いてあるもの、そして自分の意見などなく淡々とした内容のものということでした。書くほうとしては面白くないでしょうが(笑)実際多くの人が他人の心や内輪ネタなど興味はないということでしょう。
それもあってあまりこのブログでは書くつもりはなかったのですが、やはりここも自分の一部なので少しはそういった話にも触れていこうと思います。
◆自分とはなんなのか
思春期に誰もがぶつかるだろうと言われている命題ですね。実際色々な人と話してみると、考えたこともないという人も多いんじゃないかと感じますが。
一般的に「哲学」といわれるジャンルです。僕の場合はその言葉の意味もよく知らない頃にあるきっかけでこういったことを考え始め、あとでそれが哲学と知りました。
- 自分とはなんなのか
- 人は何のために生きているのか
- なぜ生まれてきたのか
- なぜ死ぬのか
- この世界は一体なんなのか
僕はいまだにこれらの答えを見つけていません。そしておそらく死ぬまでに見つけることはできないでしょう。100%の確証をもった答えは。
それぞれの考察はいずれ別の機会に書くとして、まずはこういった話をすること自体の意義から書いてみましょう。
当時、自分や周囲の人・世界の存在意義や信頼性、そして喪失の恐怖に頭を悩ませていた僕を見かねて、友人のひとりがこんなことを言いました。
「考えすぎを考えすぎなんだよ」
この言葉は今でもよく覚えています。友人の中でもそれほど聡明でもない(失礼)だろう友人から言われた一言で、僕は一時的に救われました。
そう。考えても答えは出ない。ならばもうやめよう、と。「裏の裏は表」という言葉の意味がわかった気がした時です。彼もわかっていて、あえて表に戻った人だったのかもしれません。
ですが、一度深く自分に問う経験をしてしまった人間はもう後戻りはできません。
「そんなこと考えている暇があったら勉強でもしろ」「食うのに困ってたらそんなこと考えてる場合じゃないんだよ」「その時間働いたらいくら稼げると思う」「その分手を動かしたほうが人の役に立つんじゃない」
現実に腰を据える友人達から色んな言葉をもらいました。どれもその通り。反論の余地はないです。僕だって食うに困ったらそれどころじゃないだろうし、考えるより行動したほうがよほど建設的だろうことはわかる。
ただ、自分の存在に対して深く深く疑問を投げかけ続けると辿り着くのは、知的好奇心の旅などという生易しいものではなく、存在意義の不在や避けられない喪失の恐怖、そして悪意。あまり言いたくはありませんが、一言でいえば絶望です。そこから誰かの言葉だけで抜け出せられるほど甘くはありません。忘れたいことだけ忘れられるようには記憶はできていないのですから。人によって心の奥地で見えるものも違うのだろう・・・そう思いたいですが。
当時の僕には、僕がもし死んだら泣いてくれる人がいました。おそらく気が狂ってしまうんじゃないかという人が。だから、そんな姿を絶対に見たくない、それが僕が見つけた存在意義です。もしそんな人がいなかったら、自分が外の世界とのつながりがなかったとしたら・・・ ぞっとします。
自分の存在意義を見出した人間に襲ってくる次なる恐怖は喪失です。
あんなに親しかった友人・知人と疎遠になる、想い合った恋人と別れる。それはまだいいかもしれません。どんなに願っても、僕らはいつかこの世界から消えねばならない。自分の存在意義を支えてくれた人もいつかはいなくなる。誰かの支えになってしまった自分もいつかは消える。限られた世界。
ですが、限られた世界だからこそすべてに終わりがある。幸せな時間が永遠ではないように、辛く哀しい時間も永遠ではない。忘れる瞬間がある。忘れさせてくれる人がいる。だから、乗り越えられる気がします。
そして自分の中に確かにある悪意。
怒り・妬み・恨み・憎しみ・欲望、そこから生まれる歪んだ心と行動。真に悪意ある人間と何人か相対したことのある僕は、同じ悪意ある心の欠片は自分の中にもあり、そしておそらく全ての人にあることに苦しみました。自分を辛い目に合わせた人間達と同じものが自分にある。そうはなりたくないのに、ふと生み出る悪意ある感情は止められない。他人にしても、肉体で分離されたこの世界で、どうすれば目の前にいる人がちゃんと信じれるのか。一体善意はいかほどで、悪意はいかほどなのかと。
しかし現実にも善意溢れる人が確かにいます。実際そういった人に献身的に救われたことで、現実的に確かめることができました。心はバランス。100%の善意を願っても破綻します。それもまた人の慢心なのかもしれません。悪意も闇も、その存在を認めて初めて善意も光も在り得る存在となります。
僕はこうやって自分自身のための答えを見つけた、というより作り出しました。だから今はこういったことで悩みすぎることはないです。これらはあくまで僕が僕のために見つけた、正解もなにもない答えですが。
こころの苦しみは自分の問題。ただ、「自分」とは他人と世界があるからこそ認識できるように、周囲との関係を拒んでは答えは出ない気がします。
こういった記事を書く意義。
同じような悩みをもつ誰かひとりに、わずかでもプラスになればいい。
人は人によって変わります。だから発信し続けていきます。